1919年に日本橋で創業。漆器業界のリーディングカンパニーとして広く知られている「漆器 山田平安堂」は、2019年に100周年を迎えました。今も「コレド室町」や「Ginza six」など話題のスポットへの出店、漆をコンセプトにした「He&Bar(Heiando Bar)」のオープン、スイスの高級時計ブランド「ショパール」とのコラボレーションなど、新たな挑戦を続けています。
しかし、同社の4代目当主である山田健太さんは「これまでの会社経営は、危機の連続だった」と振り返ります。
斜陽産業と言われる漆器業界の中で、山田平安堂はどのようにファンを作り、会社を成長させてきたのでしょうか。倒産寸前の家業を業界トップに導いた経営手法についてお話を聞きました。
山田健太(やまだ・けんた)。1996年、当時の代表であった父の死をきっかけに25歳で山田平安堂の代表に就任。健太さんの祖父である創業者、創業者の長男である2代目、その弟である3代目に次いで、4代目の当主を務めている。
就任した直後は債務超過で、
1年持つかどうかという状況でしたね
―去年100周年を迎えた山田平安堂は、どのような歴史を辿ってきたのでしょうか。
山田:創業者は、僕の祖父です。祖父は滋賀の家から京都の漆器屋に丁稚奉公として働きに出ていました。商売の才能があったのか、すぐに店長に抜擢され、東京進出の責任者に任命されたようです。
そのあと京都の本店の経営が厳しくなった時に、祖父が東京店の経営権を買い取ったのです。今でいうMBOですね。そこから、山田平安堂の歴史が始まりました。当時、漆器はとてもよく売れていたので、順調に業績も伸びていきました。
ところが、ライフスタイルの変化もあって徐々に漆器が売れなくなってきて、2代目のときに会社が大きく傾いてしまったんです。それで、このままではまずいということで2代目の弟だった、私の父が3代目の当主として代表に就任しました。
ただ、立て直しは難しく、苦しい経営が続いていたようです。そんな時、心労もあったと思うんですけど、父が心臓の病気で急死してしまって、私が代表に就任することになりました。そういう流れで会社を継いだので、僕が代表に就任した直後は債務超過だったし、決算書を見る限り、1年持つかどうかという状況でしたね。
―もともと、会社を継ぐ予定だったんですか?
山田:決まってはいなかったですが、いずれそうなるだろうと思っていました。ただ、入社したばかりの銀行で、頭取を目指して頑張ろうと思って必死に働いていたので、戸惑いもありました。当時の決算書を、銀行の上司に見てもらったときには「いや、絶対やめとけ。銀行に残ったほうがいい」とも言われましたしね。(笑)
ただ、やっぱり自分は漆器に育ててもらったという思いがあったので、山田平安堂を継ぐことに決めました。
―当時の上司の方には、反対されたんですね。それくらい厳しい状況だったと。
山田:そうですね。正直に話してしまうと、僕が代表に就任してから最初の融資が降りるまで10年かかりましたし、「キャッシュが足りない」という月が10年のなかで100回くらいありました。そういう厳しい状況を乗り越えて、ようやく再建できたんです。
―就任された当時は、どのように経営していこうと考えていたのですか?
山田:何をやろうにも資金が限られていたので、一気に立て直すような経営戦略はとれない状態でした。まず地道に、いくつかタネをまいて5%伸ばす、10%伸ばす、みたいな仕事を5年くらい続けて、やっと少しずつ新しい投資が出来るようになりました。
「漆器じゃないマーケットでどう戦うか」
を当初から考えていました
―“タネをまく”というのは、具体的には何をされたんですか?
山田:当時としては相当早かったんですが、1999年くらいからオンラインでの販売を始めたんです。今では収益の柱になっていて、業界の中でも結果が出ている方だと思います。例えば「母の日」と検索すると、うちのブログが上位に出てくるんですけど、このブログが月間50万PVくらいのアクセスがあるんですよ。実際に、オンラインショップまで来てくれる人はそのうちの1%くらいですけど、それでも十分な集客になりますよね。これからも記事数を増やすなどして、サイトの運営により力を入れていこうと取り組んでいます。
あとは、「漆器じゃないマーケットでどう戦うか」を当初から考えていました。家庭用食器としての漆器は、もはや我々が商売をやっていくのに十分なマーケットではありませんし、100年前と比べてライフスタイルも変わっているのに、同じ業態を続けていくのは難しい話ですよね。
だから、新しい価値観を提案しなければいけないんです。それが一番うまくいったのは、ショパールという海外のハイジュエリーブランドとのコラボレーションですね。ショパールの時計に山田平安堂の漆が採用されて、今でも毎年「蒔絵モデル」というのを作っています。これは、装飾としての漆の美しさに着目してもらえた例ですね。このようなコラボレーションも含めて、撒いていた “タネ”が少しずつ実を結んでいきました。
山田平安堂が誇る職人が手掛けた蒔絵の文字盤が使われている、ショパールの時計。
山田平安堂のオウンドメディアは、月間約50万のアクセスを誇っている。
―それまでの“家庭用の漆”とは違う価値観で、商品開発や販売をしているのですね。
山田:そうですね。僕が思うに、漆器のマーケットが小さくなった原因にはライフスタイルの変化もありますけど、同時に漆器屋の怠慢も大いにあると思うんですよ。世の中のニーズが変わっているのに、今まで通り重箱を売ろうとしていたりとか。
漆を見て「汚い」という人には会ったことがないし、大抵の人が「綺麗」「感動する」と言ってくれます。それなのに、その漆の美しさに世間の人が気付かなくなっているとしたら、我々漆器屋に問題があるわけじゃないですか。実際の購買に結びつくように、僕たちが売り方や見せ方を変えていかないといけないんです。
もちろん、食器としての漆器を捨てたわけではありませんが、大きな未来はないと感じています。なので、漆がファションでどう活きるのか、インテリアでどう活きるのかなど、新しい可能性を常に模索して、様々なマーケットに挑戦していきたいですね。
―その1つが、ショパールとのコラボレーションなんですね。
山田:そうですね。ショパールの時計に関して言えば、ショパールの店頭で販売してもらえることがとても大きいです。ショパールの店頭で販売してもらうことで、食器とは異なるマーケットの人にも漆の美しさを知ってもらえるんです。
漆って言わば塗料なので、時計に限らず色々なものに塗れるし、絵ととらえればさらに幅は広がりますよね。漆の美しさには、色んな商品の価値を上げる力があると思うんですよ。ただ、それを全て自社でやるのは難しいので、様々なマーケットリーダーとコラボして展開していくのがいいかなと思っています。そうやって漆とは異なるマーケットで漆の美しさを知ってもらって、食器でも買ってみようか、と考えてもらえたらいいですよね。
「自分たちがいいと思うもの」
を売るのがブランディングだと思う
―健太さんが代表に就任された時の商品は食器のみだったんですか?
山田:飾り物が少しあった程度ですね。ただ、私の父が30年前くらいに投入した「和モダン」のラインナップがあるんですけど、当時としてはすごく斬新だったし、今の時代にも通用すると思っています。
最初は結果が出ていませんでしたが、僕の代からよく売れるようになってきたんです。父には美意識とか美的センスだけでなく、先見の明があったんだと思います。経営が苦しい時期は、父の残した斬新な商品にだいぶ助けられました。
―当初はあまり売れていなかったということですが、それでも残し続けたのは何か理由があるんですか?
山田:私が継いだ時には少しずつ売れるようになっていたので、やめるという判断はしませんでした。ただ、父の頃の数字を見ていると執念、信念のようなものを感じますね。売れてなかったとしても「こういうものがすばらしいんだ」という、思いのようなものを。
この経験もあって、うちの会社では商品を3ヶ月の売上データだけですぐに入れ替えることは絶対にしないんです。いいと思う商品を、長くお客様に問い続けます。
それに、商品の動向を長い期間で見ていくと「なんでだろう」と考えるきっかけにもなりますよね。
例えば、お客さんは既に持っている食器に合わせやすいものを選ぶので、今までと全く異なるデザインを買ってもらうのは難しいことがわかりましたし、そういうお客さんの心理があるから、新しい商品が0から100に変化するような劇的な売れ方はしない、ということも見えてきました。
―そのような経験があったから、短期間でのデータだけでは判断しないんですね。
山田:はい。それに「売れるものを売る」というより「こちらがいいと思うものを売る」のがブランディングだと思うんですよね。売れるものばかり販売していても、山田平安堂というブランドを長い期間で考えたときに、ファンがつくのか疑問ですしね。
バカラには、自分たちの世界観を広げていく
という強い意志を感じるんです
―いま漆器業界では、業界をリードするポジションにいらっしゃると思うんですけど、他の業界も含めてベンチマークしている企業はありますか?
山田:ベンチマークしているのは、バカラです。細かく研究したわけではないんですけど、バカラの商品とかパッケージとか、だれもがみてもバカラだってわかるあの感じはとてもいいですよね。
バカラは「自分たちのグラスが最も美しく見える空間を作る」というコンセプトでバーの経営もやっているんですよ。そういう取り組みも、やっていることがおしゃれだなと思って見ています。僕たちも2016年から「漆の良さを内装でも感じてほしい」というコンセプトでバーを経営しているんですけど、バカラのほうが少しだけ早かったので、当時は「先、越された!」と思いましたね。(笑)
あと、バカラは基本的に食器やインテリアを扱っているんですけど、アクセサリーも手がけています。クリスタルの輝きを身につけようというコンセプトで売り出して、すごく話題になりました。そういうアプローチも好きでしたね。
よくある話ですけど、ブランドとして売れると様々な商品に手を出したりするじゃないですか。革のブランドなのに革とは全然関係ないものを作ったりとか。そういうのを見ると、売れれば何でもいいのかなって思うんですよ。それに対してバカラには、自分たちの世界観を広げていく、という強い意志を感じるんです。
もし、山田平安堂のブランドで陶器やガラスの食器を作ったら売れるとは思うんですよ。だけど、そういうのがあんまり好きじゃないので、やりたくないですよね。本当に困って、どうしようもなくなった時にはやるかもしれないですけど。(笑)
次の100年を目指す上で
過渡期を迎えている
―現状の課題とかってあったりしますか?
山田:正直、課題だらけなんですよね。僕も20年やってきましたから、出来ることは結構解決してきたつもりなんです。だから、残っている課題は難しいものばかりなんですよね。
中でも特に課題として感じているのは、職人の後継者問題です。自社でも職人を育成していますが、10人、20人くらいの規模なんです。本当は200人、300人くらいの人数を育てないと昔ながらの質を保てないんです。ただ、そういう課題って産業構造的な部分が大きいので、自分たちだけでは解決できなくて困っています。
解決するには、資金調達を考えて上場を目指すとか、漆器文化に数億円単位の資金を投資してもらうにはどうしたらいいか、みたいなことを考えないといけないんですよね。
―自社だけでは解決できない課題に取り組まないといけないんですね。
山田:そうですね。山田平安堂自体も、次の100年を目指す上で過渡期を迎えているんだろうなと思います。今までは目先に課題があって、それを解決していけば会社は成長したし、結果として業界にもいいことができたんですが、それとは異なる段階に来ているんでしょうね。
資金調達とか、漆器文化に投資をしてもらうというのは一例ですけど、会社や業界を成長させるための挑戦は続けていきたいと思っています。
1996年、当時の代表であった父の死をきっかけに25歳で山田平安堂の代表に就任。健太さんの祖父である創業者、創業者の長男である2代目、その弟である3代目に次いで、4代目の当主を務めている。
山田平安堂:http://www.heiando.com/